いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因(下)

いじめとは何か?大人、会社、学校など、いじめの本当の原因(下)

ハラスメント・生きづらさ家族の問題(機能不全家族)

 前回につづき、いじめについてまとめてみました。よろしければ、ご覧ください。

 

<作成日2017.4.14/最終更新日2023.2.6>

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この記事の執筆者

みき いちたろう 心理カウンセラー(公認心理師)

大阪大学卒 大阪大学大学院修了 日本心理学会会員 など

シンクタンクの調査研究ディレクターを経て、約20年にわたりカウンセリング、心理臨床にたずさわっています。 プロフィールの詳細はこちら

   

この記事の医療監修

飯島 慶郎 医師(心療内科、など)

心療内科のみならず、臨床心理士、漢方医、総合診療医でもあり、各分野に精通。特に不定愁訴、自律神経失調症治療を専門としています。プロフィールの詳細はこちら

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 管見の限り専門の書籍や客観的なデータを参考に記述しています。

 可能な限り最新の知見の更新に努めています。

 

 

 

もくじ

いじめのメカニズム(つづき)
いじめを解決するために必要なこと

 

 

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いじめのメカニズム(つづき)

・いじめは秩序的、共同体的な行為

 いじめについての議論でよく見られる誤解は、「秩序の解体(無秩序)」「規範意識の欠如」「幼さ」といったことがあります。逆に、「秩序の加重さ」「濃密すぎる人間関係」「狡猾さ」ととらえる論者もいます。

 実はこれらは、すべて整合されます。

 

・群生秩序

 秩序とは単一ではなく、現場では複数のローカルな秩序がせめぎあっています。これを「群生秩序」と内藤氏は呼んでいます。反対に、人権などの普遍的な理念に基づくものが「市民社会の秩序」です。

 「群生秩序」とは、そこでの善し悪しが「みんなの気持ち」で情動的に決まってしまう秩序のことです。言い換えれば、その場の「ノリ」が決定する秩序です。ノリを壊すものは、大罪を犯すものとして徹底的にいじめられるようになります。

 ノリというと子どもじみて感じられますが、凝集性の高い職場(例えば病院や会社など)では、大人でも当たり前にノリで秩序が決まり、それに従い、同じように動かない同僚を「むかつき」、理由をつけて攻撃しています。ただ、大人の場合は、子どもと違い、より「もっともらしい」理由で攻撃するかどうかの違いだけです。

 

 

・「倫理的」「秩序的」ないじめっこ

 群生秩序から見れば、市民社会の秩序である「人権」や「生命倫理」は、秩序を脅かすものでしかなく、大人たちが人権を持ち出して、「おまえたちは人として大切なものがわかっていない」と叱っても、「あなたのほうがわかっていない」「なにもわからないくせに」とただ反発されてしまいます。実際に、いじめを行っていた生徒たちの多くがそのように証言しています。子どもたちは、無秩序でも、倫理がわからないわけでもなく、むしろ彼、彼女らが属する秩序の倫理に従っている点で「倫理的」「秩序的」であり、共同体の成員として「模範的」であるのです。

 この意味においては、いじめを「悪魔の行為」と言って罰してみても、話が通じません。社会的な存在として模範的に行動した結果であり、当事者にとっては悪でも何でもありません。

 

 子どものいじめ報道に眉をしかめる大人も、職場では「仕事ができない人」をさげすみ、罰している行為は、実は子どものいじめと何ら変わらないのです。
 

 

・身分秩序~スクールカースト、職場での「できる社員-できない社員」、“出来損ないの”妻、夫、子ども

・つくり出される身分秩序

 群生秩序の中では、ノリの中で生まれる基準をもとに身分がうまれる。こうした秩序は、学校内では特にスクールカーストと呼ばれます。「コミュニケーション能力」や「リーダーシップ」などで序列され、当事者とっては「イケてる-イケてない」といった言葉で表現される序列である。身分の上下によって、ふるまい方にも制限が加えられる。例えば、身分が下の生徒が調子に乗ったりすれば、厳しく制せられる。笑顔でいるだけでも、調子に乗っていると、むかつきを覚えられることになる。

 

・実態のない秩序

 これらは当事者にとっては容易に変えられないもののように見えますが、実は社会構成主義的(そこにいる人たちの意識)に作られてモノであり、実態のあるものではありません。

 事実、いじめを受けた子が転校した先では普通に生活できたり、それまでいじめられていなかった子がいじめられるようになることがあります。

 大人の世界、仕事でも同様です。プロスポーツの世界でも、チームが変わるだけで、監督が代わるだけで活躍できなくなる、できるようになる選手はたくさんいます。人間とは想像以上に環境に左右される存在であることがわかります。

 

・「できる社員-できない社員」というレッテル

 一般の職場でも、成果主義が破たんしたように、客観的に仕事ができるかどうかを決めることはとても難しいことです。営業成績で無理に線を引けば、ある意味明確になったように見えますが、実はノリで決めたある基準で単純化しただけにすぎません。ある会社で「できない社員」とされている原因が、その会社という共同体のノリで決めた基準が呪縛となって、動けなくなっているためであることもしばしばです。実際、長年勤務経験のある方であればわかりますが職場の評価とはその時の空気で容易に変動することがわかります。役員、管理職の好みで基準は大きく変わるあいまいなものなのです。

 社員にも役職以外にも、そうした身分(「できる社員-できない社員」)があります。そして、凝集性の高い職場では、できない社員が笑顔を見せると、「そんなことしている暇あるの」「そんな調子に乗ってていいの」と、あたかもカーストの下位身分のようにとがめられるようになります。

 

 家庭でも同様です。「気が利かない妻(夫)」「悪い子」と配偶者や親から決めつけられて家庭内の秩序の下層に位置づけられてしまっていることがあります。決めつけられると決めつけられて通りになるのが社会的な生き物としての人間の性質でもあります。

 

 

・中間集団全体主義

 「中間集団全体主義」とは、簡単に言えば、国のような大きなものではなく、地域、学校、会社、家族などの中間集団の特定の絆を強制されること、また、絆と個人の利害が対立したら絆を優先せよと強制されることです。「中間集団ファシズム」と呼ぶ人もいます。全体主義とは、秩序が揺らいでいる中で、造られた単一の人工的な理念や秩序を全体に覆いかぶせて、それに従うことが正しいとすることです。全体主義の前では国家や市民社会もその下位に位置づけられます。

 

 

・特定の価値観の押しつけ

 本来、人間のスタイルは多様であり、あり方も多元的です。社会への参加の仕方、つながり方、絆も多元的です。多元的であるはずの私たちに対して、「これこそが最高善」として特定のスタイルを押し付けてしまうことはどのようなものであってもそれは全体主義的(ハラスメント的)となります。

 実は、カリスマとなるような経営者やセラピスト、あるいは家庭の中で父親、母親、妻、夫などが、「これこそがあるべき人間のありかただ」と打ち出して、それに従うのも実は全体主義なのです。

 

 

・悩みにあるときは支配されやすい

 秩序が乱れた状態の時、人間であれば悩み(不全感)にある時に、そうした指針が示されると熱狂的に支持されることがあります。当事者も充実を感じることがあります。かつてのナチスドイツなどで、党員や市民がイデオロギーを獲得していきいきしている記録映画がありますが、まさにあのような状態です。しかし、全体が成長している時はまだ良いのですが、しばらくするともともと持っている多元的な性質はおさえられるものではないため、全体の秩序は抑圧的となります。

 

 

・全体主義の中の「スター」「模範生」

 中間集団には、かならず「模範生」「スター社員」「優等生」がいます。その模範生の存在が周囲のメンバーをさらに苦しめることになります。模範生がいるということは、システムではなく、自分に問題があるとみなされてしまうからです。

 

 学校(職場、家庭など)はまさに、その中間集団の代表格のような存在です。過密な空間と時間に生徒を押し込めて共同体を押し付けることが、いじめを生む背景にあると専門家により指摘されています。

 

・共同体の中のメンバー(先生や親、上司、同僚など)は仲裁者となりえない

 いじめとは、共同体の秩序そのものがもたらす現象です。一般に考えられるように秩序の乱れやハプニングによるものではありません。

 たとえば、いじめが発生した際に警察などに告発した被害者側が、学校の保護者達や先生からバッシングに遭ったり、「学校を守れ」と生徒や保護者達が学校や先生を擁護する署名活動をしたり、といったことがしばしば起こります。あるいは、先生たちがいじめがあったことを認めない、被害者への対応が悪いことも珍しくありません。

 

 これらも一見すると、異常な考えを持つ先生や保護者たちが責任を取らされることを恐れて被害者をさらに追い詰めている、といったように見えます。実際は、異常なのではなくて、先生たちや保護者も学校という共同体の秩序に対して「正常に」従順なために起こる現象です。

 

 そのため、共同体の秩序が生む問題に対しては共同体に深くコミット(関与)しているメンバーは仲裁者にはなりえないということです。学校以外でも、会社、家族内で起きるハラスメントに対して、上司や親に訴えても、訴えた側が悪く言われたり、まったく取り合ってもらえない、軽くしか扱ってもらえないのはこうしたことが原因です。

 

・まとめ:内藤朝雄氏の「いじめの社会理論」と従来のいじめ原因論との違い

 内藤朝雄氏の「いじめの社会理論」と従来のいじめ原因論との違いをまとめると下記のようになります。

 

(従来のいじめ原因論)

 ・いじめをハプニングや事故として扱っている。
 ・いじめと通常の学校の秩序とが非連続であるとしている。
 ・いじめを「子どもたちが命の尊さがわからない」などと人間としての未熟さや心の問題として扱っている。
 ・いじめを秩序の乱れ、あるいは秩序の過重として扱っている。
 ・いじめを日本に特殊なものとしている。
 ・いじめを自身が問題と信じることを投影して論じようとしている。
 ・特定のケースにのみ有効である。
 など、簡単に言えば、問題の構造を捉えていないということがあります。

 

 

(内藤氏のいじめの社会理論)

 ・いじめを心理、社会的な構造でとらえている。
 ・いじめを日本社会の問題に還元してとらえていない。
 ・いじめと通常の学校の秩序とを連続したものととらえている。
 ・いじめをメンバーが属する共同体秩序が生む問題ととらえている。
 ・これまで一貫した説明が難しかった、メンバーの振る舞いやさまざまなケースについても説明力がある。
 など
 
 

 

 

 

いじめを解決するために必要なこと

・特定の共同体やつながりを強制しない枠組みつくり

・もっともらしい理念の強制から全体主義が生まれる

 上記にも書きましたが、秩序が揺らいでいる中で、造られた単一の人工的な理念や秩序を全体に覆いかぶせて、それに従うことが正しいとすることを「全体主義」と言います。現代においては、残念ながら、「家族」「友だち」「夫婦」「性別」「学校」「会社」「地域」そして「愛着」「絆」などがまさにその全体主義に該当するような作用を及ぼしてしまっています。

 

 それぞれは、私たちにとってはなくてはならないものです。ただ、人によってあり方はさまざまですし、時代によっても急速に変化します。その多様性や時代性を考慮せず、頭の中でこしらえた「こうあるべき」「こうであるにちがいない」という幻想を他者に強制するようになると、たちまち「全体主義的(ハラスメント的)」なものとなってしまいます。

 たとえば、「ナチズム」「ファシズム」などは危険なものだということは誰でもわかりますが、「家族」「友だち」「学校」というと、表面で語られる家族愛、友情、教育愛などに惑わされて、その問題点はなかなか感じ取ることはできなくなってしまいます。

 

 

・機能としてとらえなおす

 ではどうすればいいのか?、
 一つには、社会学では「ゲマインシャフト(共同体組織)」と「ゲゼルシャフト(機能体組織)」という分け方が参考になります。上記で上げた項目の多くは「ゲマインシャフト(共同体組織)」に分類される項目です。※会社などは西洋では、「ゲゼルシャフト(機能体組織)」ですが、日本では会社共同体として凝集性の高い性質があります。

 「家族」「友だち」「夫婦」「性別」「学校」「会社」「地域」「愛着」「絆」なども、そこで語られる共同体的なつながりを当たり前のことととらえずに、機能としてとらえなおすということです。そして、その機能が満たされていなければ、そこからは離れて機能を満たす新たなつながりをつくることをちゅうちょしない、そして社会もそのことを承認して後押しするということを当たり前とすることです。

 

 例えば、「学校」の機能とは、本来、「産業的身体の育成(将来、社会に出て働けるような知識や規範を身に付けること)」です。子どもも10人いれば10人ともあり方が異なります。最近では、非定型発達という考えが提唱されるようになっているように、想像以上に人間は異質なもので、単一の秩序、規範では収まることはできません。

 社会学者など専門家の多くも、従来のように学校共同体を基本単位としては捉えずにクラス制度を解体して、大学のように科目ごとに選択して受講したりする必要や多様な教育機会の拡充が唱えられています。

 

 

・社会化には「適応」と「抵抗」の両方が必要

 それでは集団生活での所作が身につかないではないか、いじめというマイナス要素があってもそれに耐えることで社会で生き抜く力が身に付くという反論も予想されます。しかし、科目単位でも、集団での活動や作業は当然ながら発生します。さらに、集団規範が、場面ごとに構成するメンバーによって異なる、自分の役割や位置づけも変化する、ということを経験することはとても重要です。

 

 環境に合わせて変化を対応すること、相対化する視点を身に着けられることは社会で生き抜くうえで必須です。集団生活での所作とは、「適応」と同時に「抵抗(離脱したり、相対化したりする方法)」も身につけなければ完成とは言えないのです。

 

 

・「家族」「会社」「地域」「友だち」「夫婦」も機能としてとらえなおす

 「家族」「夫婦」等も同様で、当たり前のものとせずに、例えば、「安心安全な環境の提供」「社会で生きていくための導きや支え」といった“機能”が満たされていないならば、その家族には問題があり、その環境からは離れる、あるいは専門家のサポートが必要となります。

 

 「会社」「地域」「友だち」「夫婦」等も同様です。表面的な言説に幻惑されず、「機能体」としてとらえることで、その本質(エートス)が見えてきます。

 

 

 

・多様なつながりを大切にする~絆ユニット

・つながりが限定されると病的な依存が生まれる

 依存症の研究などでも示されている定義ですが、人間はさまざまなものに依存しながら生きています(健全な依存)。しかし、限られたものにしか依存できなくなると、そこから離れることは死を意味するため、過度なしがみつきが生まれます(病的な依存)。これが依存症のメカニズムとされるものです。

 
 学校や会社でも、「それしかない」「そこからの脱落したら、もう他ではやっていけない」というように追い込まれると、群生秩序を生み、人間は容易に不全感に陥ってしまいます。会社の不祥事や追い込まれての自殺など、「なぜ、そんなおかしなことが起きるのか」ということはまさにこうしたことを背景にしています。

 

 いじめについても、いじめる側がなぜ全能欲求によってその場をコントロールしたくなるのかと言えば、「依存する場が学校しかない」からです。専門家も指摘するように、例えば、予備校や自動車教習所でいじめはおこりません。なぜなら、所属する場所はほかにもあるからです。

 

 

・「絆」ブームへの懸念

 震災後も「絆」ということを強調することに称賛と同時に懸念も示されました。それは、多様であるはずのきずなを、社会がノリで決めた「こうあるべき」という単一のありかたを全体に覆いかぶせることへの懸念です。

 

 

・多様なつながり(絆ユニット)

 絆は一つではありません。多種多様なものであり、さまざまなものとの接続と離脱をくりかえりながら人間は生きていきます。最近では「愛着」という概念がブームとなっていますが、それが絶対視され「それしかない」となった瞬間に全体主義的(ハラスメント的)となり、私たちを苦しめます(実際、「愛着」とは多様な人間のきずなの一つにすぎません)。

 

 社会学者の内藤朝雄氏はこうした多様なつながりを「絆ユニット」と呼んでいます。

 

 

・暴力など違法な振る舞いには法的な措置を

 暴力など違法な振る舞いには、法的な措置を採ることをちゅうちょする必要はありません。
特にこれまで学校や家庭、職場について、出席停止や警察を介入させることについてはルール違反とするような空気がありました。しかし、いじめは、合理的な計算も同時に働いているために、警察沙汰になると割が合わないとなれば途端に収まることがわかっています。

 
 また、ブラック企業やモラルハラスメント、パワーハラスメントなどこれまではなかなかわかりにくかった問題についても、社会で問題視されることで、問題の基準や規制が生まれて、再発防止につながります。

 

 

・コミュニケーションによるいじめへの対処法は

 コミュニケーションを操作したり、無視したり、といった微妙な問題を当事者が現場で対処することは容易ではありません。中長期的には、上にも書きましたように、特定の秩序を強制しないような仕組みづくりが必要です。私たちも、本当の絆とは何か?多様性とは何か?といったことへの理解が広まることも大切です。

 

・相談窓口への相談

 短期的には、いじめ(ハラスメント)があまりにもひどい場合は、学校であれば親、教師、会社であれば人事、労組、外部の相談窓口などの適切な機関に相談することです。その際は普段から細かな記録を取っておくことは大切です。もちろん、相談相手自体が秩序に巻き込まれているため、適切な対処が期待できない場合もたくさんあります。セカンドハラスメントと言いますが、訴えた側が悪いとされることもあります。そのため、最終的には、環境を変える必要も覚悟する必要があります(本来は、出ていくべきは加害者であることは言うまでもありませんが)。

 

参考)NPOなどへの相談

 いじめ問題を扱うNPOも活動しているため、学校の対応が十分ではない場合に相談することも有効です。

  いじめSOS 特定非営利活動法人ユース・ガーディアン

  NPO法人ストップいじめ!ナビ   など

 下記のような本も参考になります。

  阿部 泰尚「保護者のためのいじめ解決の教科書」(集英社新書)

 

 

・環境を変えることをためらわない

 ただ、環境を変えることは「逃げ」「弱さ」ではないということです。私たち人間は本来、適切な環境を選択しながら、自己を形成していくものだからです。従来信じられてきたように、進路が単線で自分に合わなくても我慢して歩いていかなければならないといった考えは本来の在り方ではありません。いじめのある環境からはちゅうちょなく離れることです。

 

 

 

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(参考)

森口朗「いじめの構造」(新潮社)
土井隆義「友だち地獄 「空気を読む」世代のサバイバル」(筑摩書房)
土井隆義「つながりを煽られる子どもたち」(岩波書店)
土井隆義「キャラ化する子どもたち」(岩波書店)
菅野 仁「教育幻想」(筑摩書房)
菅野 仁「友だち幻想」(筑摩書房)
宮台真司他「学校が自由になる日」(雲母書房)
森田洋司「いじめとは何か 教室の問題、社会の問題」(中公新書)
菅野盾樹「いじめ 学級の人間学」(新曜社)
内藤朝雄「<いじめ学>の時代」(柏書房)
内藤朝雄「いじめの社会理論 その生態学的秩序の生成と解体」(柏書房)
内藤朝雄「いじめの構造」(講談社)
内藤朝雄「いじめと現代社会」(双風社)

内藤朝雄「いじめの直し方」(朝日新聞社)

鈴木 翔「教室内(スクール)カースト」(光文社)

金子 雅臣「職場いじめ―あなたの上司はなぜキレる 」(平凡社)

中井久夫「いじめの政治学」『アリアドネからの糸』(みすず書房)

阿部 泰尚「保護者のためのいじめ解決の教科書」(集英社新書)

など