<生きづらさ>というのは、現代の臨床において重要な中心的な概念ではないかと感じています。周辺にある悩みや一見関係のない悩みを理解する上でも<生きづらさ>という言葉やその背景を知ることはとても意味があると感じています。
何が要因なのか、具体的にはどのようにすれば改善できるのか、について少しでも多くの人に伝えたいと思い、医師の監修のもと公認心理師が、まとめてみました。
よろしければご覧ください。
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<作成日2015.12.27/最終更新日2022.2.25>
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この記事の執筆者みき いちたろう 心理カウンセラー(公認心理師) 大阪大学卒 大阪大学大学院修了 日本心理学会会員 など シンクタンクの調査研究ディレクターなどを経て、約20年にわたりカウンセリング、心理臨床にたずさわっています。 プロフィールの詳細はこちら |
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この記事の医療監修飯島 慶郎 医師(心療内科、など) 心療内科のみならず、臨床心理士、漢方医、総合診療医でもあり、各分野に精通。特に不定愁訴、自律神経失調症治療を専門としています。プロフィールの詳細はこちら |
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管見の限り専門の書籍や客観的なデータを参考に記述しています。
可能な限り最新の知見の更新に努めています。
もくじ
・<生きづらさ>とは何か?
・<生きづらさ>のメカニズム~「関係性の個人化」と「強迫的な内面化」
・家族における<生きづらさ>
・職場における<生きづらさ>
・<生きづらさ>という概念の起源
(下)につづく
[(下)のもくじ]
・<生きづらさ>の背景
・身近な人間からもたらされる「関係性の個人化」
・心理カウンセラーでさえ「個人の責任」という信念から自由ではない
・<生きづらさ>を抱えている人は、むしろ社会性が過剰な状態にある
・<生きづらさ>を克服する方法
<生きづらさ>とは何か?
<生きづらさ>とは、当人をとりまく理不尽な環境に問題があるにも関わらず、それらを全て個人の責任とされ、罪悪感を植え付けられ、その結果、外的規範の強迫的な内面化 と過剰適応によって自己否定感や周囲と一体となれない疎外感などを感じさせられてしまうことをいいます。
2000年以降に顕在化した社会現象でもありますし、それ以前からもある悩みにも共通するメカニズムでもあります。
<生きづらさ>のメカニズム~「関係性の個人化」と「強迫的な内面化」、そして「過剰適応」
・関係性の個人化
人間というのは「環境によって規定される存在」です。個人の力では環境に抗うことは非常に難しいものです。生まれた国や社会の言葉を用いている事自体、人間が環境から自由ではないことを表しています。
学歴や仕事の成果など個人の努力の結果と思われるようなことでさえも、バックグラウンドである出身の世帯収入や友人関係が作用していることが明らかになっています。
コミュニケーションなど個人の資質と思うことも仕事や技術、人間関係の土台がなければスムーズに行えなくなってしまうものです。
環境によって私たちはいくらでもダメな人間になるし、良い人間にもなる、人間とはそのような存在なのです。
最近20年を見ても、グローバリズムや格差、コミュニケーションの基盤となる“しごとの喪失”など環境の変化は多くありました。しかし、近代個人主義はそのことを見えなくし、環境要因を全て個人のせいとしてしまいます(関係性の個人化)。
・強迫的な内面化
現象としては確かに「個人の失敗」としてあらわれます。そのため、本人も「自分はダメ人間だ」と思って、生きづらさの原因を自分の努力不足として半ば受け入れます。ただ、直感的には「何かがおかしい」とも気づいているのですが訴えることができないし、誰からも理解してもらうことができません。
<生きづらさ>の原因を個人に帰属させる直接の言動は、身近な家族や友人からもたらさられます。「いつも失敗ばかりでダメなやつだ」「言い訳せずに、努力しろ」といった督励などがそうです。そして、その言動によって罪悪感を植え付けられ、私たちは支配され、孤立させられてしまいます。「おまえはダメ人間だから、私の指導に従え」と、一見正しく見える常識や規範を強迫的に内面化させられてしまいます(強迫的な内面化)。
内面化を促すものは「罪悪感」です。罪悪感を植え付けられることで、私たちは少々違和感があっても、与えられる常識や規範を飲み込もうとします。
幼い子供であれば、何もできない姿を取り上げて「言うことを聞かない悪い子だ」だと精神的に虐待を加え、罪悪感を植え付けます。夫婦であれば、例えば家事が苦手なパートナーを責める。職場であれば、十分な教育を施さないままできない相手を責める。まさにかつての植民地の住民のように、ダメな状況を作っておいて、失敗させ、責めて精神的、肉体的に支配するということがおこなわれています。
・過剰適応
ダメな人間だと思い込まされ罪悪感を植え付けらさているので、リカバリしようと過度に社会性を発揮して空回りを起こしてしまいます(過剰適応)。その結果、過剰適応がもたらす過敏さと空回り、さらに他者と一体になれない疎外感に苦しみ、不器用な自分を責め続ける悪循環に陥らされてしまうのです。
これが<生きづらさ>の正体です。このメカニズムはさまざまな悩みにも共通するものです。
家族における<生きづらさ>
・力を発揮できなくする家庭環境
家庭においても、どのように育つのか、どのような力を発揮できるのかは環境に依存します。しかし、一方的に過剰な規範の押し付け、暴言や決め付けなど<ハラスメント>を仕掛けておいて、当人が力を発揮できない家庭環境はあちらこちらに存在します。
力を発揮できないことをいいことに「ダメな子ども(あるいは夫、妻)だ」と叱りつけ、抵抗すれば「言うことを聞かない」と罵倒する。罪悪感を植え付けられ、親やパートナーが押し付ける規範を内面化しようとする。家族の期待にこたえようとする。でも、できない。なぜなら、力を発揮できないような環境にあるから。本人は、幼いころに理不尽な環境にあったことを覚えていないこともしばしばです。
・家族が社会のジョウゴとなり、生きづらさを注ぎ込む
また、社会的に厳しい環境にあるのに身動きがとれない状況を、本人のせいにされて家族から責められる、ということも起きます。家族が社会のジョウゴとなって、その苦しさを注いでくるのです。
劣悪な環境にあるのに、「関係性の個人化」によって、当人のせいにさせられてしまう。直感的にその構造を見ぬいて指摘すると、「人のせいにするな」「環境のせいにするな」と反論されてしまう。(あからさまではなく、もっと巧妙に支配されてしまっている場合もあります)
・つくられる”現実”に追い込まれる
現実に結果を出せていない自分がいるので、ますます自己嫌悪に陥らされてしまい、反論すらできなくなってしまう。でも、心は気づいているので、<生きづらさ>は極限に達している。
理不尽な環境から抜けだそうとしても、自分では経済的にも能力的にも自立することができないと思わされている人も多くいます。さながら囚われの身の象のように、精神的な足かせを架されて、自立することをちゅうちょするような状態に陥らされています。
職場における<生きづらさ>
・きしむ職場
仕事は環境に依存します。個人の力といってもたかが知れています。しかし、ここ20年で実力主義が広まったことで、仕事が本来環境に依存していることが自覚されなくなってきました。そのうち、職場でもすべてが個人のせいとされる<関係性の個人化>が当たり前となり、<生きづらさ>が完成します。
組織が疲弊したり、仕事を伝えたり、教えたりする機能が失われた職場も多い中、仕事のしづらさや、人間関係のきしみが生じています。
・個人のせいにされる職場の機能不全
機能不全な職場に入った人はどうでしょうか?ミスを頻発したり、職場の雰囲気が悪いために、過度に責められたりすることもあります。結果、個人のせいにされたり、本人もそう考え、悩んだりします。こんなにミスする自分は、発達障害なのではないか?と思い込む人も珍しくありません。
実は環境の機能不全に原因があるのですが、周囲も本人もそのことに気がつかないのです。失敗は全て本人のせいにさせられてしまいます。
・守るものがないまま、強いストレスにさらされる
成果を強く求められる職場では、目標、目標、と追い立てられ、目標を達成しても常に上乗せの目標を示され、達成できなければ切られてしまう(評価されなくなってしまう)、という地獄のような環境で働いています。
目標がない職場でも、ギスギスした不機嫌な職場のいびつな関係性の中、おかしいと声を上げたくても、「あなたにも問題があったのでは?」といって<生きづらさ>が見逃されてしまう。
自分を守るものがないまま、むき出しの個人のままで対処を強いられるため、過剰に気を遣うようになり内面はヘトヘトです。
・大切な“つながり”“一体感”
生きがい、働きがいということについて皆様も思い返していただければわかりますが、個人の責任が強調されている場面よりも文化祭の準備のように、仕事はチームワークとして、全体として、取り組んで楽しんでいる場面が一番やりがいもあるものです。
つまり、“つながり”“一体感”こそが大事で、個人で仕事をするフリーランスでさえも、仕事の取引先や、消費者との一体感を感じて仕事をするのでなければやりきれない。仕事を覚えるのも成長ですが、それによって物事や人との付き合い方を学んでいき、社会とつながることができるから楽しいのです。
・崩れてきた仕事のしくみ
しかし、仕事のしくみが崩れてきて、「関係性の個人化」によってあらゆるものが個人の責任とされてしまうと、うまく物事や人と付き合うことができなくなってくる。そして、すべて自分のせいにされ、その重みに耐えている心の底が抜けて働けなくなってしまうのです。働くことができている人も、適度に紛らわせないとやりきれない状態が定年まで続くことになるのです。
ここから、よりくわしく、あなたが生きづらい、その背景を見てきます。
<生きづらさ>という概念の起源
<生きづらさ>という概念、言葉が登場したのは、つい20年ほど前であり、とても新しい現象です。
例えば国会図書館の蔵書検索を行ってみるとわかりますが、「生きづらさ」を冠した最も古い論文は1981年になります。しかし、81年は1本だけで、次に古いものは、いきなり2000年まで飛んでしまっています。書籍などで本格的に取り上げられるようになったのも、2000年代頃からになります。
若者の問題を扱っている渋井哲也というライターも、インターネットの記事の中で下記のように書いています。
「私が使い始めた1998年、今から15年前は、浸透しておらず、書籍や雑誌の編集者に対しても説明が必要だった。そのため、「生きづらさ」という言葉を使わないか、定義をしてから書いていたものだ。」(「生きづらさという言葉を問い直す」より)と、つまり、98年時点では、誰もが了解できるような言葉ではなく、新しい言葉であったようです。
それ以前はどうだったか?というと、「苦悩」「悩み」「生活苦」といったことはありましたが、<生きづらさ>という形で実感、表現されてはいなかったようです※。
1995年のオウム真理教事件の際も、多くの若者が世の中に違和感を感じて入信したわけですが、報道などの中でも「生きづらい」という言葉は耳にはしませんでした。もし、そうであれば、その時点で<生きづらさ>というテーマで、相当議論になっていたはずです。
オウム真理教事件は、どちらかというと、学歴エリートを中心として、バブルのような消費社会への違和感や疑問や、「生きる意味」を求めて、といった形であったように記憶しています。<生きづらさ>は、90年代末から徐々に見られるようになり、2000年以降に本格的に感じられるようになってきた社会的な現象です。
※社会学者の小熊英二は、全共闘運動などがさかんになった1960年代後半ごろを<生きづらさ>といった「現代的不幸」の起点としている。当時は、それを表す言葉がなく、代わりに当時の若者達はマルクス主義の言葉を借りて、「疎外」や「主体性」といった用語で表現したり、遠いベトナムでの戦争などの政治と結びつけて考えていた、としています。
(下)につづく:<生きづらさ>を克服する方法、など
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参考
貴戸理恵「「コミュニケーション能力がない」と悩む前に」(岩波書店)
本田由紀「多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで」(NTT出版)
本田由紀「軋む社会---教育・仕事・若者の現在」(軋む社会)
福田恆存「消費ブームを論ず」「福田恆存評論集第16巻」(麗澤大学出版会)
など